比爪館跡


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比爪 もうひとつの平泉
 比爪館(ひづめのたち・ひづめだて) は、平泉初代藤原清衡(ふじわらのきよひら)の四男清綱(きよつな)がここに派遣され、その子、太郎俊衡(たろうとしひら)、五郎季衡(ごろうすえひら)らが居を構えて比爪の地の産金等を支配したとされています。
 館跡は赤石小学校付近にあり周辺に堀の跡や平泉と同時期の住居や井戸、倉庫などの跡が確認され、かわらけなどが出土しています。
 箱清水(はこしみず)という地名や松原という屋号などはこうした館の空間を想像させます。館は奥大道(おくだいどう)、北上川が南北に走る交通の要衝にあり軍事と物流の拠点でもありました。
 その規模は、東西 320m、南北 290m の平坦な土地です。
 文治(ぶんじ)五年(1189年)9月4日、源頼朝(みなもとのよりとも)が平泉を攻めて紫波の陣ヶ岡に布陣しました。この時、比爪一族は館に火を放ち北へ逃亡しました。
 頼朝の裁定で太郎俊衡がただ一人この地に残り、その他の一族はすべて関東方面に流罪となりました。
 平安時代の終わり頃、東北地方全域は、北の王者 奥州平泉藤原氏 が支配していました。
 はじめ奥州藤原氏は、奥六郡とよばれた岩手県中央部から県南にかけてを支配し、その中に重要な平泉三館(ひらいずみのさんたち){平泉館(ひらいずみのたち)・衣川館(ころもがわのたち)・比爪館} を置いて、そこから支配地を広げていきました。
 そのひとつ、比爪館が、紫波町南日詰の赤石小学校とその周辺に広がっています。
 当時の紫波郡は、 藤原氏の初代清衡(きよひら)から三男の清綱(きよつな)が受けつぎ、 比爪館は清綱の子、 俊衡・季衡(としひら・すえひら)の兄弟が比爪氏を名乗って治めていました。
 比爪は樋爪とも書き、どちらも同じです。
 比爪氏の時代 (12世紀)の遺物 かわらけと呼ばれる素焼きの粗末な土器が大量に出土しています。
 かわらけの器種は皿形から碗形をした直径13~16センチほどの大型のものと、小皿形の直径7~8センチ前後の小型のものがあり、両者ともにロクロを用いて作ったものと、ロクロを用いず手づくねで作ったものがあります。
 その他の器種では、まれに柱状高台(ちゅうじょうこうだい)と呼ばれるものも出土しています。

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比爪館と関連遺跡


昭和50年3月25日
記念物
史跡
赤石








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by gts007 | 2016-06-03 10:32
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